私たちの東京オリンピックは、どこかで間違ってしまったのか。

2021年07月25日

それにしても、これほどドタバタで国民の共感を得られないオリンピックになるなどと、一体誰が予想し得たでしょうか。

新国立競技場の設計やシンボルマーク決定の段階から騒動が続いたTOKYO2020。
一年遅れでようやく開会に漕ぎついたと思ったら、直前になって再びクリエイターの辞任・解任が繰り返され、選手や関係者からCOVID-19陽性者、熱中症が発生し、競技はチケットを持つ人もスタジアムに入れない無観客開催となりました。

オリンピック(パラリンピックも含めてこの語を使用します)の感動を伝えたいと言いながら、子供たちはその目で直に試合を見ることが許されず、学校施設へ練習に訪れた選手との交流も一切不可能。福島の子供たちが準備したメッセージ付きの朝顔の鉢は、炎天下のスタジアムの隅に放置され萎れていました。

コロナ禍の中で「強行」するオリンピック開催を危ぶむ声は以前から強く、開会式当日の7月23日現在「今からでも中止」を求める活動は勢いを失っていません。

政府は情報発信を間違った

ある気鋭の広告クリエイターがTwitterで「(今回のオリンピックは)本来あるべき長期の見通しとストーリーが示されなかった」という趣旨の文章を投稿し、話題となりました。
https://twitter.com/TAKAHIRO3IURA/status/1413649766014099459

この点は、まさしくその通りだと思います。この状況下でなぜ実施するのか、どう実施するのか。どういうビジョンで、どんな施策を施しつつ、そこに何を期待するのか。私たちは今回の「TOKYO2020」について一度も、その意味と意義を国から明確にプレゼンテーションされていないのです。

なるほど、都度個別に情報発信はされてきたのかもしれません。しかし、私たち(国民、アスリート、海外の人々)が納得できるような力強い、統一性のあるメッセージは存在していません。公式サイトを見ると、一年前の延期からこれまでに至る歩みが書かれてはいるものの、通常の場合とまったく変わらない「大会ビジョン」が大きく掲げられ、平時の開催と同じ仕様になっています。

今回のオリンピックは、過去に行われたそれとは状況が異なります。世界的にいまだ進行中の感染症リスクの中で、主催国としていま日本はオリンピックの開催をどのように考えるのか。それこそがTOKYO2020に求められた大会ビジョンなのではないでしょうか。

開催するにあたっての意義と覚悟、諸々の施策がはっきり示されないがゆえに、私たちは勧進元(日本政府および東京都、IOC、JOC)に対する不信感や不平等感を払拭することができないのです。

緊急事態宣言を出したり解除したり、飲食店の営業・イベント開催・学校行事を中止しながらなぜオリンピックだけが特別扱いなのか。「復興五輪」という当初のコンセプトはどこへ行ってしまったのか。「世界がコロナを乗り越えた証」は一体どこにあるのか。そこに対する理解も共感も形成されない限り、素直に協力したり応援することは不可能です。

日本政府は情報発信を間違えました。しかしそれは国民に対し「不便を強要して申し訳ない」という謝罪や「国家国民にとって大きなチャンスだから当面我慢してほしい」というお願いであればよかった訳では決してありません。

必要だったのは、開催意義の明瞭で明確な表明、そして全体を網羅する詳細な情報です。

2020年、オリンピックの意味と意義は変容した

2020年3月に一年の延期が決まった際、国はどうして「特殊な状況下でのオリンピックのあり方」について検討しなかったのでしょうか。検討プロセスを公開し、広く知見を集めようとしなかったのでしょうか。

IOCが「延期は考えていない」「抜本的な決断をする時期ではない」と主張したとしても、日本は今大会の主催国です。国際社会にも大きな影響力を持ち、貢献しうる国家の一員であるはずです。その日本が「もはや素朴なスポーツと平和の祭典という次元ではない。開催するならその意義を何に求めるか。アスリートと観客を守り、リスクを最小限にとどめる開催の方法は何か」と問えば、様々な選択肢が検討されたはずです。

それは主催国の責務です。それにより国際社会から称賛されるか非難されるかは結果論であって、この時点ではどうでも良いことです。
開催に際して提出された立候補ファイルには「アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる気候」と書かれています。菅首相は「世界のアスリートが万全のコンディションでプレーし、観客にとっても安全安心な大会」(2020.6安倍政権の官房長官として)と発言しました。世界に対して発信される言葉は、重い意味を持ちます。これらの言葉に忠実であるならば、例えば時期をずらす、再度延期する、規模を縮小する、日本での開催にこだわらず各国で分散開催する、開始から終了まで一年ぐらいかけてゆっくり開催する、など様々な可能性が検討されてしかるべきだったのではないでしょうか。感染症に対処するため予算を考え直し、当初掲げていた「世界で最もカネのかからない五輪」をもう一度目指す道はなかったのでしょうか。

コロナ禍がなくても、時代は持続可能をめざすSDG'sの目標に向かっています。国家の威信をかけて予算をつぎ込み、メダルの数を競い合うスタイルはもはや前時代のものです。困難な状況下で開催するTOKYO2020は、多人種、多国籍、多地域、多宗教、多種目、多世代の人々が集い、共生して「人間の力」を信じ称える象徴的なイベントであってほしかった。人々が分断される今だからこそ、あえて開催するのならその意義を強く信じさせてほしかった、と思います。

そしてそうであるならば、大会以外の部分でも日本は国際的な共生をリードしなくてはなりません。留学生や難民など在留外国人への対応や、海外の人権抑圧や搾取の状況にどう考え、どう取り組むのかに関しても国家として姿勢・戦略を示し実施しなければ、オリンピックの意義が空論になってしまいます。

失踪を経て本国に帰国、拘束されたウガンダの選手。いまだ抑圧の続くミャンマー、ウイグル。デリケートな国際と人権の問題に対しても、オリンピック主催国が無視を決め込むわけには、いかないのではないでしょうか。

単にアスリートの活躍と記録を純粋に楽しめばよいのなら、それはワールドカップや世界水泳などの国際大会と変わりません。それらと区別されオリンピックが特別な存在であるのは、それが国際社会の維持と発展に貢献するものであるからです。「スポーツに政治を持ち込むな」という批判はここでは当たりません。オリンピックは初めから政治的な意味を持つイベントなのです。

網羅的かつ俯瞰的な、全体のデザインを知りたかった

オリンピックのような国際的イベントは、あらゆる方面の無数の細かなモジュールが、ブロックのように構造的に組み合わされ、成立するものです。特に今回の場合は、感染症に対して「未感染者への予防」「感染者への治療」「感染不明者に対する情報公開と検査」を横軸に意識しつつ、選手の招聘と移動、練習、生活管理、会場整備、聖火、観客、応援、チケット、観戦、交通、医療体制などの諸計画を組まなければなりません。そしてそれらと、私たちの日常の生活を維持するインフラや医療、物流等との共存を図る統括的な設計が必要です。

これらの様子が大きなビジョンの下にわかりやすく俯瞰できる、情報伝達・公開の仕組みが本来は構築され、共有されるべきでした。選手や報道陣、スタッフ、医療関係者、ボランティア、観戦希望者などあらゆる立場のステークホルダーが必要とする情報が、そこにアクセスすればひとまず得られる。公式webサイトがそのような構造であったなら、混乱はもっと少なかったように思います。

さらには、あらゆる立場からの意見や質問、アイデアを募る機能も必要でした。私たちは、専門でない分野のことは分かりません。だからこそ社会は分業で成り立っているのです。オリンピックを価値あるものにするためには、ファシリテーター(交通整理役)を置いて数多くの知見を集め、双方向でサイトを充実させ反映していく仕組みが効果的だと思います(シンプルな例ですが、Wikipediaなどはそうした集合知で成り立っています)。

何よりも、オリンピックという場で競技に臨む当事者たるアスリート個々に対して「どういう状況、条件下で競いたいと思うか」を聞いてみるべきだったのではないでしょうか。

そのチャネルを用意せず「決まったことなんだから国の方針に従ってください」と上意下達式に事を進めても、一方で反発が大きくなるばかりです。企業の組織作りと同じ、というよりも民間企業の方がこの点ではむしろ先を行っているような気がします。

多様性の時代のオリンピック

安倍前首相は「反日的と批判されている人々がオリンピックに強く反対している」と述べました。政治家としてはあまりに短絡的で、軽はずみな発言だと思います。反対するには反対するだけの理由があります。選手や観客、日本やオリンピックそのものを心配するからこそ反対する人々に対し安易に「反日的」と呼ぶのは、戦時中に翼賛態勢を受け入れられなかった人々に「非国民」のレッテルを貼る行為と同じです。多様性の時代のオリンピックでは、反対も賛成も一定の程度存在する前提で、そのうえで決断をしなければならない局面が何度もあります。どの立場も国民なのですから、頭から批判や否定をせず、言いくるめでもなく、理解や共感を形成するための誠実なメッセージを出す責任が、トップにはあるはずです。「開催するとなったなら、みんなで一丸となって協力して成功させよう」というのであれば、私たちを納得させてほしい。協力し、応援する気持ちに仕向けてほしい、と切に思います。

最後に

危ぶまれた開会式は無事に行われました。あれが1964年の東京オリンピックのように、後世語り継がれるものになるかどうかは分かりません。しかし、開催に向けてあらかじめ国民や世界の心をつかむことができていれば、いつまでも感動が心に残るものとなったことは間違いありません。思い出されるのは、モスクワで行われた2011年4月の世界フィギュアの開会式です。3月に日本で行われる行われるはずだったこの大会は、直前に起こった東日本大震災のため急遽モスクワに場を移して開催されました。会場では選手たちが犠牲者を悼み、日の丸を囲んで手をつなぎ黙とうを捧げ、プーチン大統領は「日本は必ず問題を解決して復興する」という力強いメッセージを発しました。準備期間がほとんどない中、観る人々に強い印象を残した開会式でした。

TOKYO2020がいまだ頑張っている日本の、世界のすべての人々に力を与えるオリンピックになったなら、と夢想せずにはいられません。

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